「環境や人のせいにするのは感心できない」ってやつ

とても共感できる考え方。

この考え方の理由として挙げられるのは何か目標がある場合、
「たとえ環境が悪くても努力やそのやり方、考え方を工夫する事によって目標や高みを目指す事ができる」というところだろう。

とても利にかなっていると言える。


「環境や人のせいにする」奴は当然単に努力したくないがために「環境や人のせい」にしている可能性もあるが、
冷静に考えると「環境や人のせいにする」ことを否定してしまうと、冷静かつ十分に考えた結果これを主張している奴が居る場合、
「たとえ環境が悪くても努力やそのやり方、考え方を工夫する事によって目標や高みを目指す事ができる」という考え方そのものを否定する事になると言える。

なぜなら「環境や人のせい」であることを主張している場合、自分で「環境や人のせいにする必要なのない状況」を作ろうとしている可能性があると言えるからだ。

 

 

例えばまったく水泳と縁のない環境に居る子供が、ある日突然何かをみて本気でオリンピック水泳で金メダルを取りたいと考えたとしよう。
ここで言う環境とは近所に川も海も沼も湖もプールもスイミングスクールもない環境としよう。
設定はかなり極端だがこれくらいしたほうが分りやすいはずだ。

 

この時、その子供にできるのは今思いつくもので3つだ。
一つ目に、親や周囲の大人に水泳をやりたいと伝えること。
二つ目に、プールに当たるものを自分で作ること。
三つ目に、見よう見まねで泳ぎを模倣すること。

 

三つ目は水泳をしているとは言えないから本気で水泳をやりたいと考えている子供はすぐにこれに飽きてしまうしこのままではオリンピックにはたどり着かないだろう。
二つ目は全く不可能とは言い切れないかもしれないが、常識的に考えてオリンピックを目指すならこれではダメだろう。やはりより良い教育者や適切な設備のある環境が必要だろう。
一つ目が最も現実的で、もし了承が出た場合にスイミングスクールに行くなり、何らかの補助がもらえる。ただし、より高みを目指すなら仮に本人の才能有無に関わらず、本人の実力の成長に合わせてより適切な環境が必要になるだろう。

 

しかも、本人の成長やる気を効率化するには最近テレビなどでもよく言われているが「楽しんで取り組む」ことが重要であると言える。
何を楽しみとするかには様々あるが、目指す先がある場合は本人の努力が結果につながるような環境であるはずだ。
「楽しんで取り組む」事ができる環境である場合、この環境は「やる気」や「努力」を持続する事につながるはず。


つまり、どの選択肢を選んだとしても本人が少しでも成長を望むなら常に客観的に分析した上での適切な環境が必要になる。
もし冷静かつ十分に客観的に考えて分析して行き詰った場合、これは「環境や人」のせいにしてもいいのではないか、というのが自分の考え方だ。

 

これ、あの本や作者の価値を下げそうでだいぶ書こうか迷うんだが、
これを読んでる人はあくまでも個人の感想として読んでほしい。

ビリギャルという映画が少し前に公開しているがその原作の本を自分も数か月前に読んでみた。
この本から読み取れるのは、本人のもともと持っている能力もさることながら、心理面と適切な教育が物を言うという事だ。

このように一般化して書いてしまうとごくごく当たり前のつまらないような話に聞こえるが、自分が可能な限り簡素化した表現をするとこうなる。

あの本における主人公の人物像は、主に家庭環境の問題で心理面が乱れ生活が荒れ、学業の面が不振になっているが、責任感は強い女子高生だ。
ただ、本人が仲間に恵まれていた(というより自分でその環境を作った?)事もあって、頭の回転も良く、何より良き母と良き教育者に恵まれた。
結果として学業での成績を大幅に向上させ、ほとんどの誰からも無理だと言われた希望大学に合格した。というものだ。

この本で着目すべき点は単に学習方法だけでなく、主人公本人の心理面を重要視している点といえる。
ストレスの多いはずの勉強をするにおいて、ギリギリまで「遊ぶ」ことはやめさせず、
学習方法も本人のやる気の賜物でもあるが押し付けや、すっ飛んだ回答でも押さえ付けるようなものではなく本人の性格や実力に合ったやり方をし、よりやる気を引き出すようなやり方を実践している。

とりわけ、目標・計画の立て方・モチベーションのあげ方、というところで一番に「メンタル」を持ってきていることからもその重要性が読み取れる。


誰でも経験があることだと思うが、どんな遊びかによるが「遊ぶ」のあとに「集中して学業に取り組む」という性質の異なることを行うのはかなりの集中力を要すると思う。
精神的に健康、つまり余計な悩み事が極力ない状態でなければできない事のはずだ。
また、この状態を繰り返すことは「発散」と「吸収」を非常に効率よく繰り返しているはず。


この本の主人公は家庭には恵まれなかったが、良き母と良き仲間、そして何より良き指導者、さらには考えを変えさせたい(認めさせたい?)人物が居たことでこれだけの事を成し遂げたのだろう。

良き理解者は母でもあり、指導者、仲間でもある。
良き母は彼女の精神的支えとなり、
良き指導者は単に「(うわべ上)褒めて伸ばす」や単に「厳しくする」ではなく、その人物の性質、癖、その時の状況をよく理解したうえで適切な言葉をかけることでやる気を引き出し、加えて適切な指導を行っている。
良き仲間は発散に大きく貢献しているし程よいプレッシャーにもなっただろう。
また、考えを変えさせたい人物は彼女にとって母を批判していた人物や父親という存在だろう。
希望大学に受かるという目標を成し遂げることは同時に母親を批判していた人物やその父親の考えを変えさせることにつながる。これは非常に良い目標でもあり、プレッシャーの元でもあるはず。

主人公の家庭は一概には言いきることはできないのだが、客観的に見て家庭内の人々の心を乱すことに繋がっている。
彼の存在は良き指導者が見つからなかった場合には毒、機能不全家族の元凶でしかないと思うが、
彼女に程よい自己否定感を植え付ける事にもなったかと思うし、 この場合にはきちんとプレッシャーのはけ口が存在し、さらに確実に実力をつけられる環境・背景が出来上がったこのケースでは非常に良い作用をもたらしたはず。

問題をきちんと認識し、その解決のために取り組む。という事が大切なはずだ。